【コラム】アモンケットにおける僕らはギデオンだった【ストーリー】
はじめに
前回まででご紹介しましたアモンケット・ブロックの物語。
力をつけだした英雄連合軍ゲートウォッチが、巨悪ニコル・ボーラスと相まみえ、敗北を喫する物語でした。
まぁ…長編ストーリーの登竜門的な感じですね!
ネタバレを回避しながら例示するなら…
ワンピースの頂上戦争あたりのお話や
アベンジャーズのインフィニティなウォーあたりのお話などなど
最強の者と相まみえ、一回負けるというアレです。
もちろん、上述の物語同様、続きには「勝利の物語」もあるもので。
ゲートウォッチはこの後、イクサランやドミナリアの物語を経て、再度ボーラスを倒すべく結集し、その集大成として、灯争大戦という物語を迎えます。
さてさて、そんな「敗北の物語」アモンケットですが。
紹介記事なんぞを書いていると、一つ気づくことがあります。
このストーリーはもっとふかああぁぁいメッセージ性が込められているのではないか!
ということに。
今回は、僭越ながらアモンケットのストーリー潜む「内容」について考察なんざしてみようと思う次第です。
アモンケットの物語を追っていると思うことは
- 死者が労働に励み、生者は(まだ年端も行かないのに)訓練のみに励む奇妙さ
- 「試練」によって生者は選別され、そこで死ぬことは名誉とされる不気味さ
- これら全てを引き起こしたボーラス許せねぇ
とこんなところでしょうか。
今回はこのあたりの奇妙さを紐解きつつ、この物語の深さを考察してみたいと思いますので、よろしければお付き合いくださいませ。
生と死の物語
アモンケットの物語は、終始「生と死」の両面を描き出しつつ、その両面があまりに近い位置に存在することによる不気味さを表現しています。
ゲートウォッチは、プレインズウォークによってアモンケットに降り立った時、死の溢れる砂漠へ着いてしまい、その洗礼を受ける形となります。
太陽と砂嵐が歩くものを襲い、ゾンビが立ち上がり、巨大なサンドワームが生けるものを食らう、砂漠は「死」の象徴された場所になります。
そこで神の一矢によりなんとか助かった彼らは、ナクムタンという都市へと侵入することとなります。
一転して、ヘクマという魔法障壁によって外の砂漠から隔絶された都市ナクムタンは、まるで外の世界などないかのように安全に暮らしています。
しかし、その都市の中も、死者は労働力として、普通に仕事をしているなど、ここでも「生と死」が隣接して描かれており、ゲートウォッチの面々は、そこになんとも言えない不気味さを感じています。(リリアナを除く)
そして何より!
この不気味さがより鮮明になるのが、ギデオンが同行した野望の試練での出来事。
試練の中で、各難題が待ち受ける部屋を次々に進むために、一門が仲間を犠牲にする様を見て当惑するギデオンへ、デジェルは以下のように一喝します。
「貴方は前の試練で一門全員を失ったのでしょう、それでも各人の栄光ある死を悲劇ととらえている。勇敢に救出へ向かっているつもりかもしれませんが、それは一門の犠牲と勇気を侮辱して貶めているだけです!」
同様に、部屋の脱出のために犠牲になることがわかっている役目をギデオンが負おうとしたとき。
「あなたに野望はあるのですか?」 デジェルはその言葉を言い放った。
「三人のために戦いを引き伸ばして命を投げ出して、可能な限り高みへ上るためにあなたを必要とするであろう皆を見捨てるのですか?」
デジェルは怒りと憤慨を入り混じらせながら私を睨み付けた。
「全員がわかっているんです、試練には代価が必要なことも、自分達の限界と可能性も、兄弟姉妹の強さも弱さも。来世で最良の地位を得るために昇るんです。そして、来たる挑戦のためには間違いなくあなたが必要になるんです」
デジェルは柱へ上ろうとする四人へと振り返った。
「兄弟姉妹よ。来世で会おう」
そして、試練の最後。
バントゥ神は修練者へ、一人につき一人、同胞を殺すように命じ、それを従順にこなす一門のメンバーを見て、ついに限界を迎えたギデオンが吼えます。
「ここから何を学べというのですか?」
私は部屋に吼えた。声が冷たい階段にこだました。真鍮細工の中で炎はまたたき、影が揺れた。全ての目が私に向けられた。
「これが私に見せたかったものですか? 無辜の者を殺せという命令を? 何のための死ですか? どんな信念と神性の紛い物が、こんな狂気を呼ぶのですか!」
バントゥはそんなギデオンを冷徹に見下ろすと、静かに退出の命令を下し、ギデオンの試練はここで終わってしまうのでした。
「栄光の死」とは?
さて、上述の物語で描かれているのは、我々の常識に寄り添った存在「ギデオン」と、アモンケットの常識に捕らわれた「デジェル」(とバントゥと一門の皆さん)という対比です。
我々はあくまでギデオン側の視点になっているため、デジェルやこの試練の物語がとてつもなく不気味に感じられます。
では、ここでいったんデジェル側に思考を持っていくとしましょう。
「死が救済である」という考え方は、人類の歴史上実際にあった思想だと思います。
日本でも「浮世(憂き世)」なんて言葉に表される通り、「現世は辛いものだ~ここから抜け出すべきだ~」という考えはありましたものね。
※その救済手段が死かどうかは別として
デジェル含むアモンケットの人々は、これに近い思想を持っています。
アモンケットでは、現世は不完全な「序章」に過ぎず、王神が到来したときに訪れる来世こそ完璧な「本番」になるのだ、と思っています。
そのため、その「本番」へ向けて、現世ではひたすらに肉体を鍛え、試練に挑み、そして「栄光ある死」によってこの世を去ることを望んでいるのですね。
※このあたりは、前回のフレーバーテキスト紹介の時にも垣間見えていましたね
こうやって考えると、デジェルの思想も、すこーしばかりは理解できてこないでしょうか?
デジェルはアモンケットの物語の終盤、神によって死をもたらされることに至高の喜びを感じ、それを妨害されたことに滂沱の涙を流しますが、その気持ちもすこーしばかりはわかる気がします。
ギデオンは取り乱しながらも、狼狽に口を開けて目を見開くハゾレト神を見つめた。彼は困惑に視線を落とし、そしてデジェルへと向き直った。
「デジェル、あの神はあなたを――」
「わかってますよ、何をしようとしたかなんて!」
(中略)
「私は勝ち取ったんだ、それなのにもう! 失われたんだ、お前のせいで!」
ギデオンは信じられず、黄金色にきらめく防御魔法の下でかぶりを振るだけだった。
(中略)
「何故死にたがるんだ?!」
「存在したいからだ!」 デジェルは涙とともに叫んだ。
そして彼は膝をつき、むせび泣いた。
常識を疑え
さてさて、デジェルがなんとなく「不気味な他人」でなくなったところで。
この物語の一番恐ろしいポイント!それは…
その死生観すら「他人によって植え付けられたもの」である
ということですね!
言うまでもなく、アモンケットの風習はもともとこんなものではなく、民を守る神と、洗練された宗教儀式が存在しただけのものであり、巨悪ボーラスはそれを利用し、捻じ曲げ、上述の物語に至るわけです。
この巨悪の存在を知っている我々は、これらの死生観が「作られたもの」であるからこそ彼らの行動に恐怖し、風習と常識に飲み込まれ、幻想に過ぎない栄光の死を選ぶ人々に、最大の不気味さを感じるのでした。
なので、この物語の隠されたメッセージは、「常識を疑え」ということなのかな、と勝手に思うわけです。
風習と常識に囚われた人々は、ボーラスの帰還によって永遠衆へと変えられ、唯一王神の欺瞞を説いていたサムトとその仲間たちは、命からがら亡命を果たす。
この物語の展開に、強いメッセージ性を筆者は感じます…!
ちなみに、死を肯定するもともとの考え方に対し、王神の呪縛から解き放たれたハゾレトは以下のように話します。
「だが我が子らよ。今はただ耐え、命を繋ぎ、生き延びよ。砂漠へ向かい、砂と蜃気楼の中に隠れ処を見つけよう。そして私がアモンケットの一柱として生き続ける限り、其方らを守ろう」
死が肯定された世界を拒み、神は生者のため死から遠ざける存在として君臨することを誓う。
いやぁ…アツいですよアモンケット!
今回はここまで
というわけで、たまには物語についての考察なんぞを書いてみましたが、いかがでしたでしょうか。
考えについての賛否両論はあると思いますが、「そんな風にも読めるかもね」なんて思っていただければ至極幸いです。
あと、言いたいことは一つ!
「MTGの物語、深いッ!!!」
「死とは?」という事を問うていた(と思う)アモンケットの物語だけでなく、ただの娯楽小説にとどまらない、様々なメッセージがマジックの物語には込められていると思います。
カードゲームとしても面白いのに、裏にこんなに深い物語があるんか!ってことが伝われば、この記事を書いた何よりの意味になるかな~なんて思いながら。
今回はここまで!
次回もお楽しみに!
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